過剰する感性-いくら幸せでないことが幸せといっても。。

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欲求とその充足の反復機関であることを超えて、いくら、意識的であることが人間的であるとしても、自分の意識に耐えられない場合もある。自分でこなせる範囲での感受性。過剰は追い込んでいく合わせ鏡であり、意識の制限。又は、モノの意味の喪失。あなた誰だったけ。睡眠等による外界の親しさの回復。



行き詰まりの転嫁

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 佐世保の猟銃乱射事件について、「自分の行き詰まりを社会など誰かの責任に転嫁したい人はたくさんいるのではないだろうか」との旨のコメントを読んだ。外界と自分の欲求の不一致は、悪が引き起こしており、その悪がなくなったら、再び外界と自分は調和する。または、外界と自分の欲求を引き起こした悪は、外界と自己の調和を復元する義務を負う。そのために悪を追求する。外界と自分の欲求の差異について、自分ではなく他人が解消すべきであるという思想。
 でも、否定する相手があったり誰かを否定するだけで済んだりする行き詰まりは、それはそれで幸せ。既に小林秀雄氏が「悲劇について」で悲劇に耐えられなくなった現代人を書いていたけど、時が進んだ今、自分自身で行き詰まりを担う能力は更に落ちてきたのかもしれない。
 国全体としても、他人のパッシングで欲求不満を解消する体質が染み込み、パッシングされる立場へのなり手が減りつつあることは押し戻せない事態だが、その帰結がどこに行くのかまだ考える余裕がない。

幸せでないのが幸せ。。

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 氷点下まで冷え込むとの予報どおり、外気が冷たい。
 幸せが外界と欲求等の一致であり、意識が外界と自分の欲求等の差異であるとすれば、意識的であろうとすることは、幸せを求めつつも、幸せでないことを求めるということになる。
 「幸せないなぁ~」がときどき自分を襲うむなしさに対し、過去の和解の追憶、それが意識的に行われたことを自覚することが充実感を贖う術かなと思ったこともあったけど、「幸せでないことが幸せ」だということに気づく。
 無論、不幸を求めることが幸せということではなく、幸せでない状態の創造はあくまで幸せを生み出すためのものだが。。ヘーゲルは楽園追放を人間の原罪というよりキリストが導いたものとして積極的に評価していたけれど、確かに「楽園追放」は、知恵の木の実を食べるということは楽園から追放されることで、しかし、それが幸せという話なのかと再認した。



躓かざるを得ない人は。。

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 昨日の自問の解答。
 自己プログラムの環境との不適応が認識・行動一般の問題まで広がれば、オペレーションシステムの更新・改良の問題となり、ヘーゲルが精神現象学で追求した意識の諸段階の問題となる。植物のように、または、天才のように、自然と自己プログラムが環境に追随できるよう進歩できればよいけど、私のようにそこらじゅう躓かなければならない不器用な人にとっては、徹底的なOSの追求が必要だったということではないか。
 OSの問題が解決したということは、自己プログラムを意識的に革新しても耐えられるということか。
 自己プログラムの改革に対する感覚から逃げずに意識的に耐えてみようかと思っている。

価値感の不断の検証って得?

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 自己のプログラミングについて明晰化する習慣がつくと、他人は何で盲目的に自分のプログラミングに支配されたままででやっていけるのか不審に思う。しかし、動物的な精神の国的あり方の方が実は得ってことはないかともときどき思う。何にせよ欲望を充足させるという点からすれば、効率的という気もする。説明を行いつつ自己の限界に挑み続けようと以前決めたけど、そろそろ自分の革新がある程度終わってほしい気持ちもある。弱さかもしれないが。。

どっちが残虐?

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 信念は、反省のビロードに包まれなければ魔女狩り等狂信的になるおそれもあるが、確かなものを失っている人が、人間失格の主人公や浮舟のように人畜無害かと言えばそうではなく、悪魔的な所業を行うこともある。例えば、自己疎外により価値が外部化してしまった状態が常態化すると、自分の行為によって鮮やかな反応が生じることを楽しみたいという欲求が生まれる人もいる。この場合には自己疎外により、善悪が外部化しているため、傍目から、どんな残虐に見えても意に介さない。感覚的鮮烈さのみを楽しむ。強烈な感覚を追い求めれば、次第に麻痺し、より強烈な感覚を追い求めることとなる。美に強さのみを求めることは、危険な領域に移行することとなることのコロラリー。
 よくよく考えれば、このような所業も、対象の有用性を認めているので中途半端である。ニヒリズムを極めれば、自己の不毛性についても気づくこととなるので、嗜虐性がなくなるとも言えるのだが、「悪霊」のスタヴローギンまで行き着くことは、容易ではない。
 また、自己疎外による価値の外部化が中途半端であれば、他人が絶対的な価値により自己を犠牲にできること(「魂」と言ってもよい。)が、憎悪の対象になることは、コリン・ウィルソンの指摘を待つまでもなく、昭和63年の名古屋アベック殺人事件でも現れている。「悪魔に魂を売る」との言葉も、魂を失った悪魔が魂を希求していることを端的に表していて面白い。
 こうして考えてみるとヘーゲルはドストエフスキーよりも徹底しているとつくづく思う


ルシア祭

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 ルシア、光のメタフォー。
 幼子が、白や赤の服をまとい、行進し、クリスマスキャロルを歌う。ロウソクを頭にかざすのがルシア。闇の中での絶対。光あるうちに光の中を進め。でも、光の中で光が眩しすぎれば何も見えないを。もののかたちも味わいたいよね。
 昨日に続き、客観について思考を深める。「壊れた機械」から「壊れた客観(??)」のメタフォーを考えてみた。
 さらに、「客観の味わい」という思想についても深めてみる。つまり、客観において機械論から目的論に至らざるを得ない理由。他方、人間失格の主人公が眺めた「客観(??)、」、つまり、「きれいは汚い。汚いはきれい。」でぐちゃぐちゃとなり、自分の連れ合い(だったっけ?)が犯されていても善悪の彼岸で呆然と見つめるしかない、劇のようで、そして機械的に過ぎない「客観」がどのような照明を浴びるのか、考えてみる。

見ごろの銀杏

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 もしかしたら、イチョウの方が桜より鑑賞時期が短いかもしれない。山吹色の樹々には、落葉後の寂寥感はなく、むしろ、力強さを感じさせる。散ってしまえば、厳しさが先立つのだが。
 休日の雑務をこなしながら、主観における推理の意義と、推理の果てとしての客観について考えていた。古来、主観の限界に突き当たり、意識的に「こころなき身」に投じた人は多いが、客観はそんな身にも訪れる「あわれ」と解してもそう誤りはない。無論、大論理学では精神現象学における自意識の問題は扱われていないのだから、西行的な切り口ではないのだが。
 いつも、もう少し今の地平を乗り越えたいと思い考えていた。男子3日会わざれば刮目して見よという感じ。

夢見る頃を過ぎても

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 「危険な青春とそうでない青春がある。前者が如何に切ないものであろうと前者のみが人に生きる力を引き寄せる。」ソルレスの「挑戦」のうろ覚え。
 「僕らはとても若かった。あの年、僕らは一睡もしなかったのではないか。」パヴェーゼの「丘の上の悪魔」だっけ。
 高校のとき、粋がっていて読んだ集英社の世界の文学全集ってどうなったのかしら。田舎の公立高校でより広い地平を模索してじれていたあの頃。河出書房新書シリーズも結構読んだ。ダレルの「アレクサンドリア・カルテット」の言語の豊饒にも飛び込んだ。
 村上春樹さんのような文学少年だった。岩波文庫の青本とかサルトルとかメルロポンティとか手当たり次第読んでいた。でも、村上さんと違い、僕はそれで食べていく自信がなく、大学は最も就職に困らないところを選んだ。あの頃も僕は僕なりに一生懸命だった。
 

東御苑もそぞろに

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 昼、シゴト空間を切るように地下鉄に乗り込み、皇居東御苑へ。
 江戸城跡の石垣や松などの緑などで構成された端正で静穏な場所。人口密度が少ない割には外国人が多く、ベビーカーを押している家族連れも見受けられる。
 三の丸尚蔵館で「祝美-大正期皇室御慶事の品々」展を。ここは、狭いけど、いつもいいものが出ている。何より、交通費代かかるけどタダだし(笑)。
 高村光雲の彫刻って、写実的と評されているけど、生っぽい生命力があり、悪く言えば、粗野で洗練されていない。それが、魅力なのかもしれないけど。
 午後の会議で、ちょっと発言。一流の学者相手で自分でも緊張していた。相変わらずあがり症。

ときどきは「亡き王女のためのパヴァーヌ」

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「亡き王女のためのパヴァーヌ」作曲者本人が嫌っていた同曲そのものもリリックで好きだけど、吉田秋生さん(だっけ)の同名の漫画の中の「愛に値しない魂など存在しない。」という言葉も頭に残っている。良い言葉だし、時間の中にある者が絶対的なものとの関係でどのようにあるかという分析において根拠付けできるし。
「精神の傷は、痕を残さない。」と同じレベルで良い言葉だと思う。



ファーストアドバント

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街路の並木も冬めいて剪定され、椿の赤さが彩度が落ちつつある風景に鮮やかさを添える。
そういえば、今週の日曜日から降臨節。この時期、数時間しか日が射さない欧州諸国で、胸がときめく時期。それぞれの家でイルミネーションとかキャンドルとかクリスマスの飾りつけをする。露店が立ち並ぶクリスマスマーケットを訪れ、クリスマス用品を買ったり、綿菓子、煎ったアーモンドとか温めた赤ワインを飲み食いしたりする。冬支度をした親子連れとかカップルとか見て、ぶらぶらうろついていても楽しい。マーケットに、移動式のメリーゴーランドが持ち込まれることもある。コペンハーゲンのチボリ遊園地とかもこの時期にオープンする。
思いっきり、背広のポッケに手をつっこんで職場に向かう。

昼休みの鉄斎

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昼休みを利用し、大倉集古館で、大和文華館所蔵「富岡鉄斎展」を見てくる。昼休みの美術館って、20代の頃は、部下と一緒に行ったこともあったが、最近は一人。富岡鉄斎は小林秀雄氏ご推奨なので、昔から眼にはしていたが、フォルムの躍動感はわかるのだけど、それで、何を訴えたいのか訴求するものが薄いという印象だった。しかし、今回、鉄斎の掛け軸が一面に何本も陳列されていると圧巻。「梅華満開夜図」とか躍動感と色彩、そして画における統一感はすごいなと思う。自分の頬や喉の筋肉とか、この造形をどのようにしてみてやろうかという具合で動く。異質のものを体内に取り込むかのように脳漿が絞られる。どうして、以前、鉄斎をみても、このようなフォルムの咀嚼過程が生じず、今回は同化をせまるような見方になったのかわからない。「前景にあったものが後景になり、後景にあったものが前景にな」(「ファウスト」だっけ。)ったのか、単に最近お疲れ気味だからかもしれない。大倉集古館は、いつもは閑散としているが今回は割と人かいる。





霞ヶ関の秋

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朝の出勤時、外務省の敷地内が紅葉で赤く、街路樹の銀杏が黄色でコントラスト。霞ヶ関だけどきれい。そういえば、財務省の敷地内の樹木も剪定がきれい。
むかし、皇居前広場に行って松とかが本当にきれいに刈り込まれていて、こういうところに手を入れているって本当にいいなと感じたことがある。小林秀雄の講演であった、ハイヒールで踏み潰される皇居の間仕切りの板の話を思い出す。文化って感じ。

絶対的なものについての知

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 我が国では、普通の人は、神仏に自らの希望をかなえてくれることをお祈りしているから、「神仏は力である。」と捉えているのだろう。このような宗教観は、自分の願いを神仏とは別物としているのだから、芸術宗教の一種だと考えられる。また、この自分の希望を中心に考える宗教観は、自分の願いを助けてくれる神とか邪魔する神とか願いによってお祈りする神仏を変えるとかとの発想につながりえて、やおよろずの神とかギリシャ神話とかの多神教に親和的。さらに、対象の力の発現は、対象への働きかけに依拠するとする点で、科学的・俗世的な思想につながる。
 他方、厳しい人生に直面した場合、自らの絶対的な拠り所を求めることもあり、その絶対的な拠り所としての神という観念も現れうる。
 宗教は、(自分にとって)絶対的なものについての知であるというヘーゲルの立場からは、「絶対者は、力である」という思想も、「絶対者は自己の現存の根拠である」という立場も、絶対的なものの絶対性の現れの違いとして整理できる。まあ、こういう考え方って信者の人には怒られそうなのだけど。
 今日掃除をしながら、関連して、2つ思いついた。
1つ目は、「神による万物の創造」という観念は、神が時間の中で万物を創造していることを前提とする限り、創造される神にとっても神が必要になる。とすれば、「神による万物の創造」という観念は、「我々に対して、神が万物を創造される」という「三位一体論」に行き着くだろうということ。
 2つ目は、プログラミングされた機械は、そのプログラムの中で働くか働かないかであって、人間等とは違う。センサーの観測データの差異によって異なる行動をとったり、センサーで異常値を観測して働かなくなっても、それだけの話であり、宗教や時間に出会うことがない。






陳述書

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前の仕事の関係で、ヒアリングを受け、その聴取録にサインを求められた。ヒアリングの際にフランクに話したので、「え、こんなことも聴取録に記載されるの?」とびっくり。でも、言ったことは事実だから責任は持たなければ。「おいおい、こんなこと言っていないだろ。」というところは直す。ちょっと言うわけないびっくりした記述もあって、怖い、怖い。サインをした後、読み返してみたら、向こうが書類を引用して書いたと思われるところの記述に大きな誤りがあるだろうことに気がついた。書類の引用だから、それは修正してくれるはずだろうと思い、連絡して向こうにも確認してもらい再度サイン。時間がないまますぐ確認を求められたので、ざっとしか見ただけだったけど、こういうときは、自分のこだわらない性格が怖い。でも、おおきな間違いが直せてたぎりぎりセーフかな。
 前の仕事では、自分が他人に署名入りの書類をもらう立場だったけど、自分も署名する立場を味わえた。ちょっとドキドキ。

転出税

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 先週、地方財政の第1人者のお話をうかがった際、モラルハザードを防ぐためには、住民が地方自治体から移動する際に転出税を導入する必要があるかもしれないと伺った。
 地方分権により、地方自治体の団体自治を拡充するのはいいが、破綻した際、当該自治体が財政責任を取らざるを得なくなるとすれば、住民としては、自治体に放漫経営を推奨しその給付を謳歌し、破綻したら別の自治体に移動するというのが、もっとも利己的な行動になる。これを防ぐためには、転出税の導入が必要だということ。
 確かに、地方分権の推奨者は、住民は地域に根ざしていることを前提としているが、限界集落の増加とか見ても、このような国民の住所移動の自由をどうするかは重要。とすれば、旧自治省の管理の枠中での地方自治ということが必要かもしれない。それでいいのかもしれないけど、財源保障責任等は国に負わせたままでしか責任を負う気がないのならば、あまり地方分権を万能薬のように吹聴しないでねという感じもする。
 振り返ってみれば、日本に生まれただけで、アフリカに生まれた子供たちとは異なり、様々な恩恵を受けることが当たり前のように議論される。しかし、将来的には、今まで将来世代に回したつけのために日本に生まれたことが大きな重荷になる世の中が到来しそうである。そのとき、富裕層は国外脱出を図るのだろうが、移転税は払ってくれるのだろうか?、

幸せの外枠

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昨日、秋めく新宿御苑の前とか散歩していると幸せそうな顔をした歩行者が多く、ちょっと認識を新たにした。幸せの外枠である我が国の豊かさは壊れそうでもその内側で脆さに気づかないでいれば、こんな楽しそうな表情があふれるのだね。小春日和だと思う。

同時代の世界各地で起きている貧困や悲惨、街角の浮浪者のこともいつも考えるなんてことができない。私は私、他人は他人、そしてその間に友達。そして、自分のことでも黄泉比良坂に石を置くことは必要なこと。いつでもメメントモリではいられない。青年期の自意識の問題も多くは問の消滅という形で解決する。日常がうまくいくとはそういうこと。

でも、自律性を失ってくれては困る。エスタブリッシュメントではない国の人々は、いつも自分で格闘しなければならない状況を抱えている。そして、皆が頼りにし更なる要求を行う国は、先進国最悪の債務を抱え、リソースも切り詰められ、ハードランディングの可能性が高い。そのときには、人のせいにはしないで、ね。。 好き勝手やっていても誰かが秩序を支えてくれるなんてことはありえない。

そもそも、僕は、流されずに生きていきたい。喜ぶにせよ悲しむにせよ、つきつけられた問いについては、逃げずにすべてを見通した上で、「いま・ここ」にいたいという気持ちがある。動物でも、快・不快はある。ありがたい話だが、自分には、過去を振り返り未来を見つめようとする能力がある。それが自分が生きていく責任だと思っている。



田園賛歌

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24日、埼玉県立美術館で「田園賛歌」展を見る。

1.投資なんていうと現代の金融業界の話のように聞こえるけど、土地を耕し方が農作物の生産性向上につながり、その知識を基に鍬による過酷な労働が行われる。農業は投資的色彩が強い。また、工場における商品生産と異なり、収穫までのリスクは農業の方が大きい。

2.このように土地改良って大変で、改良された土地って貴重。そこがわからないと賛否いずれにせよ農地転用規制は議論できない。

3.そういえば、「落穂拾い」って、フィリピンは最近でもやっている。スモーキー・マウンテンのスカベンジャーとのパラレルで考えると、生活のせつなさを感じる。

4.都市住民の田園の再発見。19世紀ぐらいだと衛生面では確かに田園の方が良かったはずだけど、偽善を排せるかという懸念もある。

5.今から見れば、19世紀後半は印象派主流だけど、当時の人のイメージは違うのだろうなという気がする。

キスリングとかも見た。図録を買う。