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zoom RSS 精神現象学における命題論理検証の透徹性について

<<   作成日時 : 2006/05/14 23:52   >>

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「精神現象学は、命題論理を突き詰めた希有唯一に近い著述である。」というと、論理実証主義者は、反証可能性などないプラトニズムの一つで命題論理が突き詰められているのはあり得ないと嘲笑するに違いない。
しかし、論理実証主義が、命題の意味について、「A=A」の無意義と「A=Non A」の無意味との間を、クラス概念の自明性をもってしか説明できず、そもそも、語概念の定義的安定性とその語概念による対象の記述の確定性を前提といるとすれば、その不徹底さは否めず、時空間内で対象との間で行われる語概念の形成と適用からみれば、その不自然な仮定は、かえって「不実証主義」とでも形容せざるを得ないのである。
ヘーゲルは、意識の冒頭、感覚的確信で、「対象を「これ」と特定することはどういうことか。」という、我々が普通疑わない地点から論述している。その結果、指し示す対象の時間的・空間的同一性は指し示す行為に帰着されているという検証が行われている(なお、精神現象学で見れば、後に続く、知覚、悟性、自己意識、理性、精神、絶対理念等はすべてこの感覚的確信論の変奏であり、だから精神現象学が取り扱っているのは、最初の投稿で述べた通り「確実性の問題」なのである。)。
「「水」は「水」じゃないか。何、ばか言っているのか。」と言って自分の対象に対する指示行為を疑わない人は、そもそも、私と対象の乖離又は「To be or not to be, it's question」つまり認識の確実性の問題が生じていない幸せな人なのであり、この人から見れば認識の確実性にかかる経験であがいている人は無駄なことをしている物好きと言えるに違いない。しかし、森が動くはずはないから勝利を疑わなかったのに、森が動いてしまうこともある。
仮に、ヴィットゲンシュタインが、幸せな人の世界と不幸せな人の世界は違うとし確実性の問題を意識しつつも、確実性の問題は、語り得ぬものとして沈黙すべきと整理しようが、それは、ハムレットやマクベスのように、確実性の問題が、自分の人生に関わっていれば、諦念したりやりすごしたりはしにくい。また、ヴィットゲンシュタイン同様、ロマンテックな心的傾向と徹底的な論理解析力を持ち合わせていたヘーゲルは、対象への表象の適用に係る確実性の問題を解明し尽くしているのだから、沈黙する必要もないのである。
 ちなみに、この論点は「本居宣長」の「天地はただ天地、男女はただ男女、水火はただ水火」等での小林氏の記述を思い起こさせる(なお、小林氏の主張を「原初的な体験への強さ、純粋さへの回帰により確実性の問題が超えられる。」などと読めば、誤読である。)

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常見、漢意(からごころ)について
小林秀雄氏の「本居宣長」は、諸哲学者等が取り扱ってきた認識論、人生論的課題について、精神現象学に比肩する透徹した解明を果たしており感銘を禁じ得ないが、同書で取り扱われている「漢意(からごころ)」と「やまとごころ」に係る論述も、無論、根本的には認識論的課題についてのものである。 先の投稿で、幾たびか、既存の命題群(現象学でいう静態的な法則の世界)の自同性を疑わず、つまり、ハムレット的(懐疑論的)状況に陥らない人について記述したが、これは小林秀雄氏の文脈で言えば、常見の人、さらには、「漢意(... ...続きを見る
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2006/05/27 06:05

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