「英国は中国と仲良くするしかないだろうね。」について

英国は中国と仲良くするしかないだろうね。」について
キャメロン首相が離脱通告を次の首相に委ねたのは、心憎い。仮に、たかをくくっていた「離脱派」が首相になって、離脱通告に怖気ついたらバカにされるだけだし、実際に離脱通告したら、経済的停滞のみならず、大英帝国の解体につながりかねず批判を一身に受けるだけなのだから。
「これで自由になった。」と吹聴している論者がいる。自国の範囲ではそうだろう。でも、他国との関係ではより不自由になり、それが経済等に跳ね返る。「不自由な」EUの中で大きな発言権を持っていた方が幸せだったと、直にわかる。
でも、外交的に我が国が、間違った途を行く英国に失望等を表明するのはダメ。こういうときにこそ、米国のように「どんな途を行くにせよ、友達」というオーラを発し続けなければ。

英国は中国と仲良くするしかないだろうね。

「よく英国国民投票の結果を予見できてたね。」といわれるが、英国ミッドランド地方の、「町に入り込んだ」移民への反発は、皮膚的な感覚で半端ではない。
でも、石油と製薬メーカーしか製造業が育たず、欧州のハブとして、地位を築いてきたあの国にとって致命的な判断。撤退の速度は不明だが、少なくとも誰も新規直接投資しようとは思わない。政治的思惑から、離脱しないことを見込んで離脱を煽っていた人は責任を取るべきだ(約束したより良い未来を作り出すこと)。ボリス ジョンソン前ロンドン市長とか。
でも、これで、英国が経済的に活路を見出そうとすれば、今でも親密化を図っている中国とより絆を強めるしかない。それを警戒するから、米国は、国民投票結果判明時に、失望等を表明するのではなく、英国と米国の特別のきずなを強調した。
でも、ロンドンが今まで通り、国際経済のハブの一つを維持したいと思うのならば、中国との関係強化は不可欠。そうでなければ、過去のポンド危機の時代に逆戻りかも。

本質の呪縛からの回避

 ポパーは、プラトンの呪縛として反証できない断言の追放をうたったが、他方、科学の実用性はその反証され難さにある。過去の豊富な経験を利用することが可能となった現在、「哲学的」な議論は無意義とも考えられる傾向にあるが、知識の反証可能性と、知識の確実性が、そもそもどのような構造になっているかは、私の興味をそそる。特に、常に日々の生活にあたって、一定の知見に基づき判断せざるを得ない身としては。また、小林秀雄流にいえば、自分の演技の出来を振り返りつつ生活する身としては。
 ヘーゲルは、「本質は、自ら根拠と位置付けることで、実存の中に表れ出で自ら実体にまで実現する」とする(大論理学:客観性)。逆に、本質は、自らを「根拠」又は偶有性等を持つ「実体」と位置付けることでしか、直接性にたどり着けないとも言える。そういう意味では、自体的な概念である「有」から見出された「本質」が概念に復帰する道筋が、本来的な「本質の呪縛からの回避」であり、ヘーゲルこそが真の意味でこれを成しえたといえる。
 

大論理学で読解上苦労したところ1

ヘーゲルの大論理学等は、ポパーが言うとおり、普通の人には、頭の中だけの単なる「妄想」としか思えないと僕も思う。でも、実は、我々の方が「当たり前」に頼りすぎていて、ヘーゲルの徹底さについていけないだけなのだが。

最近やっと難所の一つである度量論がそれなりに論理的に読めるようになる。
ということで、難所の読み方ををちょっと披露(大論理学を目にした人以外以下分からない記述です。)。

1.向自有のところの牽引は、何の牽引なの?仮に、(目の前の)紅茶が、「茶色く」、「おいしく」、「少し苦い」ということで、「茶色」いもの、「おいし」いもの、「少し苦い」ものが牽引するのなら、「反発」はどのレベルで考えたら良いの?

→ 精神現象学の「知覚」同様、性質(あまた)の牽引と反発と考えてよいです。私は、「仮にそう読むと、なせ「紅茶」であることが止揚されなければならないのか説明できないのではないか。」と思っていましたが、「空」を介在させることで大丈夫です。

2.度量のところで二つの度量の結合が出てくるけど、どうしていきなり、別の度量が出てきて、しかも「結合」するなんて話になるの?

→ 私も、当初「度量が実在化、独立化するから、別の度量がでてくるのだろう。」と単純に整理していました。でも、これは誤りで、比率的な量のところの、二つの質の一つが、実在的度量のところで別の度量となるというのが、正しい読み方です。
ずっとひっかかったのは、「このように読むと、比率的な量のところで展開していた、直接的比例と冪比例の適用の区別が整理できないのでは?」ということですが、大丈夫です。逆にこう読まないと、実は量論も読めていないということになります(私も改めて量論から読み直しました。)。

3.ちなみに「冪比例」の理解も難所です。でも、「冪比例からなぜ、度量に移行するのか」考えてから、はめていくと分かると思います。微積分の知識は要りません(笑)


「すべての科学は歴史学である」ことについて

 大論理学の本質論では、本質は、存在論から抜け出した最初は、存在にとらわれない、存在の規定を否定するものとして著される。そこから、本質が、どうして自ら規定を持つものとして進展するのか考えていた。とすると、本質は、これまで(覚えられている)起こったことの総体として規定されることに気づいた。事象の記述も物理法則も、過去(経験)又はそれが概念把握されたものとして捉えらえる。それゆえに、本質は、単に存在の否定ではなく、存在同様、充実した規定(骸骨ではあるが)としてありうる。
 小林秀雄流に言えば、歴史をとるのが儒学、自然をとるのが老荘とすれば、「本質」に立脚するのは、儒学と言える。

本質が他者に移行するとき

ポパーは、本質を求めようとする人の営みに、人のサガ、プラトンの呪縛を見いだしたが、存在つまり生じることの真理が本質である面を理解できなかった。
不思議なことに、そして、本質も最後には、他者に移行せざるを得ない。50にして、やっと分かった。

向自有における2種類の反発

向自有における反発と牽引について、昔から、一が多へと反発する論理(つまり、「本」が「この本」として、「白くて」、「文字が書いてあって」・・・)、と多がそれぞれ反発する論理(「白い本」と「文字の書いてある本」・・・)とどちらでヘーゲルが展開しているのか自信がなかったが、改めて大論理学を読んでみると、ヘーゲルも反発は2種類あるとしていることを発見。その上で、どう論理をつなぐのかというと、簡単に言えば、「1番目の反発が基本だが、これは2番目の反発を前提としている」とのこと。 クールです。
これなら、量論へとうまく展開するし、量論で「度」が新たなフェーズとして出てこなければならない理由も明確です。

ヘーゲルの精神哲学(エンサイクロペディア)

エンサイクロペディアの精神哲学編(心理学)を読む。
従前は、ここの論理展開は、精神現象学に包摂されていると勘違いしていたが、想起等、むしろ、論理学の一般と個別、精神現象学の主体と客体の区別の問題解明(止揚)を踏まえ、書かれていることが分かり、その上の記述としてみて読むと新鮮で、勉強になった。表象における象徴化の箇所は、カッシラーを思い起こさせる。
むろん、精神現象学の「心理学」は、「心理学」の探求では確実性の問題は解決しないということで、精神哲学が扱っている課題には真っ正面からは対応していない。
とすれば、ヘーゲルの主著は、論理学でも精神現象学でもなく、エンサイクロペディアということになろう。

心と意識の差異について1

 この人については、本当に驚かされる。精神哲学(エンサイクロペディア)の心の箇所。
 精神現象学が意識から始まり、フッサールが意識について志向性を前提としたとおり、意識が啓示される円環の中であまり疑問を持たなかったが、意識を反省的とし、その前段階として心を置いたのには、改めで驚いた。「哲学入門」と同じ構成だが、同書では既述として略されているので、精神哲学を読んで、改めて、心と意識の差に関する彼の鋭敏な(前人未踏の)理解に驚いた。
 特筆すべきは、心の肉体性である。言われてみれば、精神現象学でも。,観念的理性から実践的理性へ、又は有用性の観念の中等で肉体性はしばしば顔を出していた。しかし、ここまで、きちんと分析されていると恐れ入るばかりである。多分に、妹と同じ、統合失調的な自己への分析の賜物にほかならないと思う。
 そのコロラリーだが、「定着(訳語は「習慣」)」を、すべての精神の形式として見いだしているのは、すごい。小林秀雄が「本居宣長」の中で「ながむ」という言葉の肉体性を言っているが、自己感情が「定着」により心の所有物になる。これによって、心は、精神錯乱から逃れることができる。ここまで、見つめたかと感慨するものがある。

ヘーゲルの自然哲学1

 過去30年手を付けてこなかった自然哲学(エンサイクロペディア)を読む。
 ヘーゲルは精神現象学や大論理学を、本人の言どおり内在的な観点から「論理的に」書いたとする立場に立ち、ヘーゲルが「読めない」人たちに一般的な、歴史哲学や自然哲学のパッチワーク的な読解を排し、悪戦苦闘しつつ、大論理学の度量論や精神現象学の骨相学、宗教編等もほぼ理解した身からすれば、逆に、19世紀の物理学的進展に伴う「万有引力」「磁力」「電気」等の観念を、哲学万能主義の立場から非経験的にパッチワークしたかのように見える「自然哲学」は、経験が基本であると見いだした彼の考えに、反するように見える。
 このため、後期ヴィットゲンシュタインか前期ヴィットゲンシュタインかみたいな話ではあるが、混乱を避けるためにも本格的な読解に手をつけなかったが、精神現象学なり大論理学がそれ自身の展開の必然性により「読めた」し、ヘーゲルみたいな自己のみを信じる天才が書いたのだからやはり理由があると思い、仕事の合間に読み始めた。
 一言で言うと、対象を概念把握する観察者の立場からが、自然をどう捉えられうるかという自然のカテゴリー論的把握であり、光速は毎秒30万キロメートルとかと等の経験的な自然法則とは無関係に、どんな物理法則下の世界でも、自然を概念把握する際、このようなとらえ方があり得るとするもの、あくまで、大論理学で見いだされた論理的世界を根拠にするものだと分かった。
 例えば、彼のいう「元素」は、ギリシャ自然哲学の理解と同様、物の態様を構成からみたもので、陽子の数で区別する現代的な元素概念とは無関係であり、「磁性」は対立性の同一点への帰属であり、電子等の回転に起因するという現代的な磁性概念とは直接関係はない。そもそも、「力」という概念は、これは、物理学的な対象と言うより、我々の対象把握の形式というべきものだから、このようなヘーゲルの叙述も意義があるのかと思い、読解を始めている。
 しかし、ヘーゲルには、「理解されない天才」という言葉が本当にあてはまるのだとつくづく思う。







また、有論へ

有と無は同一でなければ、そもそも、時空間上何かがあるということは、論じ得ないのだが、有が無に必然的に移行するわけでも、無が有に必然的に移行するわけでもなく、無が有に移行した、有が無に移行したとということが起こった(既に与えられた)ことが重要。そういう意味では、無から有への「生成」(のみ)が起こっているというのが正しい。

類似して考えれば、いくら自然の認識が進んでも、ビックバン以前の宇宙は、「あった」というのと同様、「なかった」というのも、有や無の概念に照らせば、不正確ということだ。

「神」が無から世界を創造したという命題はどうだろう。すべての事物が客観に従うという点等を考えれば正しいのだろうが、やはり、「無から」というのは一面的なのかもしれない。これに対して、「「神」が無から世界を創造したというのは、世界に第三者を前提すると正しい。」という命題は正しいと思われる。

ヘーゲルにおいては、「神」は絶対者ではないことについて

高校のときから、哲学の世界では、神=絶対者であることを前提に、神=絶対者の存在が議論されてきたと理解していた。それは、哲学において、相対的な価値ではなく、不変性の探求が一つのテーマであったからと思う。
という観点からして、ヘーゲルの論理学で「概念」を「絶対者」より高位概念においているのは、ずっと気にはなっていたがほっておいた。
しかし、大論理学を読み返すと、単なる「絶対者」は、顕在化を欠いているから、「概念」や「理念」より、低位概念であることを理解した。つまり、神を至高概念とするならば、神は「絶対者」ではない。
また、こうも言えるだろう。神を絶対者としてのみ捉える立場は、絶対者が、精神でもあり、現実でもある三位一体を理解していないと。

有が時空間より先行する点について

 俗見では、時空間は有の前提条件であり、カントでも、時空間は、直感の先験的要件であるが、有という出来事が時空間に先行すると考え抜いたヘーゲルは、やはり、天才としかいいようがない。
 時間は、生成、消滅を問わない有と無との同一性であり、空間は、有と無の区別を前提とした有と無の同一性であり、有という出来事が支えている。それは、有の体験が深まり、度量として、ベクトル的に時空間を捉えられるようになっても同様である。
 度量篇を大筋理解した今なら、こうも言えようか。「時空間の一体性は、本質によって成り立っている。」。有自体に有の無差別を超える要素があり、それは、有という出来事が起こった始原から前提されている。

大論理学

問題意識がわからないと文章は理解できないので、ヘーゲルの論理学は難解なのだが、精神現象学や小論理学で、確実性や確定性の問題になれると、大論理学は、さらなる問題意識に対応できるものとして、良書であることがわかる。 なせ、根拠も、原因も「反映」の一形態として理解できるのか、本質と非本質の対立が、力とその発現、原因と結果の関係等と並行した関係であるか等、よくわかる。
ヘーゲル自体で、哲学が極まっているが、その中でも、やはり、大論理学は最高峰だと思う。

多としての本質

 本質が一なのか多なのかなんて考えない人が多いだろうし、本質と非本質の対立の面を思えば、多である本質が他の物と対立するというのは、意外と難しい構成であろうが、現象が本質であると考えるときには、本質を多としてとらえるし、それが、全体と部分の相関への展開へ重要なきっかけとなる。

空間概念について

 時間概念は、変化(否定)の持続としてわかりやすいが、空間概念については、腑に落ちないものがあった。
 生きていると「刻の涙」として時間の絶対性を実感されるとしても、否定の持続として考えた場合、時間すら必ずしも先験的ではないと考えられる。それなら、時間概念に劣後するようにみえる空間概念は先験的であるわけはないと感じても、時間による変動により変わらない空間という概念は、先験的とも見え、どのように扱っていいのかあまりぴんと来なかったし、関心も薄かった。
 しかし、最近現象と自体との関係について、「いろいろと現象するにも関わらず物の統一性はあるよね」という話を再考したとき、「いろいろな物が現れるけどその場所の統一性はあるよね。」という問題と同じ性格の話であることに気づいた。
 とすれば、いろいろなものである場所がいろいろなものでありうるのに一定であるのは、媒介作用によることとなる。そして、空間概念は、いろいろな物をなり立たせるという点で、量という概念に相似する。
 我ながら、ふーんと思った。

悟性と理性の違い そして、からごころ、常見の人

高校生の時、ヘーゲルやカントを読んでいて、悟性と理性の違いについて腑に落ちず、先輩に尋ねたが、やはりよくわからなかった記憶がある。悟性という言葉は、哲学の世界でしか使われない。現代人にとっては、「観念的な思考が蔓延していた過去の時代に、生み出された観念であり、現在では意味に乏しい。」となるのかもしれない。哲学の解説者でも、微温的な考えしか持たず、村の言葉としてわかったような説明をしている者も多い。作者の誠実さを信じ、作者が見いだした「意味」を再現できるかどうかというのは、読み手の力量次第だろう。

前書きはここまでとし、「自分が過去に得た知識が、将来もそのまま適合することに疑問をいだかない。又は適合しない場合には、悪が生じている。」というのが、素朴な悟性である。ある種の教条主義であるが、現実、多くの人は、ほとんどこの立場で生活する。いちいち、自分の知識が「仮説」と考えて行動していては、安心して生きてはいけない。若い人を惑わせるソクラテスは、社会の敵であるというにはある意味理解できる反応である。

ただ、このような「常見の人(むろん、本居-小林秀雄氏の用語である。)」に対し、将来の実験による反証可能性を認めるのがカールポパーが主張する科学の立場である。カントのように感性という言葉を使うのならば、、感性に否定される可能性を否定する悟性は科学ではない。感性に否定され悟性を容認し、むしろ、それを積極的に肯定するのが、理性の立場である。思考の徹底性という観点で見れば、カントはヘーゲルには全く及ばないが、理性を感性と悟性の統合ととらえ、その間を、範疇、構想力でとらえた見方というのは、今になってなるほどなとも思う。「火は火、水はただ水。」という言葉は、火なり水なりという概念は、感覚的確信に根を持っているということである。
ただ、感性主義となってしまえば、親密性のある狭隘な認識・行為環境しか提供しないおそれもある。外の知見によりもたらされた有用性の体験は強力で、「からごころ」は「からごころ」で現実の大きな変革要因になってきた経緯もある。「朝日に匂う山桜の花」という感性重視の「やまとごころ」が如何にして「道(生き方)」につながるかについては、本居-小林なり、ヘーゲルの大才が必要である。