アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
ヘーゲルな日々
ブログ紹介
help RSS

なぜ、物語を戒めの方に読んではいけないのか?

2012/02/27 14:38
 小説等に「人生如何に生くべきか」という回答を求める人たち、エヴァとかドストエフスキーのファンってそういう 人たちが多いと思う。他方、小林秀雄さんは、「本居宣長」でそのように物語を戒めの方に解釈する方向を否定する。小林さん自体が、「人生如何に生くべきか」という問いを投げつけ、ヴァレリー等の作家を特に取り上げているところをみると一見自己矛盾にも見える。
 しかし、物語の本当の意義は、「精神現象学」のような生の構造分析ではなく、実際の生を支える価値の認識なのだとすると、源氏物語のようなものが、むしろ、世界最高の文学の一つとなるのだと思う。精神現象学みたいな知は、人類のみならず、知的生命体なら必ず従わざるを得ない枠組みに過ぎない。むしろ、絶対的なものが、実際にどのような姿を取るのかという点が文学のありがたさなのだという認識だと思う。
 ただ、留意したいのは、ドストエフスキーの諸著作も、あれは、ある種の状況に置かれた人間の意識の開明であり、そういう意味では、実際の生の記述であり得る点である。
 とはいえ、芸術が独自の価値を持つという認識は重要であり、それは、いわゆる哲学を見通した後に生じてくる認識でもある。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


アンセルムスの深さ

2012/02/12 07:50
 「人が神という観念を持つから神が存在する」というアンセルムスの神の「存在証明」に対し、「銀貨の観念をもっていても、銀貨が存在するわけではない。」と難じたカントを、ヘーゲルは、「この人はアンセルムスの見た問題が何もわかっていない。」と思ったと思う。ヘーゲルを、「ドイツ観念論」としてカントからの流れで理解する人がいるが、カントが凡庸に落ち着いた位置は、ヘーゲルが極めた高みからは遙かに低い。

 銀貨と思っても銀貨がそこにあるわけはないなどということは、カントを待つまでもなく中学生でも言える。 推理形態としては一見より耳心地がよい「不完全な人間が完全な観念をもてる訳がないので神が存在する。」というデカルトの神の存在証明も含め、「当時は、キリスト教概念が強かったから、神の存在を証明する必要があったから、このような詭弁を考えついた。」と思ってしまうのも、自然である・

 しかし、存在の実現はすべて自然の法則に従わざるをえず、自然の法則に従わない物は何も存在し得ないとすれば、人が銀貨を思った結果、脇の引き出しから取り出したり、働いて人からもらったりして、銀貨が目の前に生じたら、君は、銀貨が存在として現れたことをどのように説明するか。批判哲学と言ってみても、君は「客観」という概念について、徹底的に考えきっていなかったのではないか。ヘーゲルはカントにそう論じると想像もしてみる。

  
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


物の名前

2012/02/12 06:58
ヴィトゲンシュタインって、あの思想だと、物に名前があるのが当然であまり疑いを持たなかったのではないかと思う。もう、論考を読んだのも、数十年前だけど、命題が所与の世界って、命名の意義にあまり意識が至らなかい場合に成立しうる。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


直接性を引き起こすもの

2012/02/05 07:45
 ヘーゲルの精神現象学や論理学等を読んでいていつも思うことは、「これって、刊行来、筆者を信じて読み切った読者はいるのかな。」ということである。わかったような気になる人は多く、わからないところは、ヘーゲルの神秘主義なるもの等として作者や時代背景の責任にしてしまう注釈者が多いのだが、作者は理性な人であるはずと信じて読んでいると、やはり、ヘーゲルは純粋に論理的で、ほかの哲学者等が通常思考を停止してしまう点まで考えていたことがわかる。同様に、小林秀雄氏の名著「本居宣長」も日本回帰としか読まれていないのだろうかといぶかってしまう。完成1300年で古事記ブームだそうだが、小林秀雄氏を信じる限り、本居宣長氏なり、古事記刊行なりも、「人は、自分の想いがかなわないかもしれない環境の中で、如何に生きるのか。」というヘーゲル同様の問題認識があったのだと思う。
 ここ数日の通勤合間は、「論理学」の本質からか概念への展開を考えていた。
 以前、この展開は、「別のものになることを自ら含んでいることが明らかになって概念へ発展する」(つまり、結果として起こったことは、当初意図しなくても、振り返ってみれば元々の物に帰属するんだよね(だから元々のものは、いろいろな姿を取りながらもその背景で変わらない「実体」と言われる。))と整理していたのだが、でも、「起こったことをそのまま自らとして受け入れるというだけならば、単なる客観性(有論)で老荘的でもあり、原因のもつ作り出す契機(本質の反映の契機でもある)が薄いよね。」と気づき、つれづれ考えていた。
 「運命を受け入れる」、「時間を受け入れる」、つまり媒介を放棄して直接性を受け入れる契機は、一種の「運命愛」(これも自分が自分であることだが。)でもあり重要だが、「運命を引き起こす」、「未来を引き起こす」、つまり、直接性を引き起こす元々の契機をもっと評価する必要があるよね(「人間」だもん。)と思い整理し直している。
 「ある一定の形であろうとすることこそが、そのものの直接性をもたらす。」との命題を考えていると、サルトルの「投与」のみならず、原生生物が行う収縮運動まで関係を整理したくなってしまう。


 






記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


フレームと積上げ

2009/06/13 01:50
画像

 予算をやっていると、財政の健全化のためのトップダウン的なフレームとボトムアップ的な各省庁の要求との乖離を感じることがある。国ナビとかは、結局は骨太2006と同様のフレーム的発想。でも、これだけ国力が落ちて次世代へのつけ回しを安易に行うようになるとフレームって重要だよね。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


社会保障財源になじむのは。。

2009/06/08 01:33
画像

 TIMEを読んでいたら、高齢者がMedicareとか年金とかの給付で得した分は自分の子孫への相続に回るのだから、相続税は社会保障財源になじむのではないかというような趣旨のことが書いてあった。
 日本の医療保険も介護保険も、無知のベールに包まれていても結局は年金同様世代間扶養の仕組み(年金はマクロ経済スライドのおかげで、一応将来世代が損しないようになっているけど)。とすれば、リバース・モーゲージの類推からしても、相続税で高齢者医療等をある程度まかなうというのは合理的。
 というか、消費税に過度の期待をかけすぎている。消費税率が上がっても、既に将来の世代の犠牲に成り立っている現在の高齢者の福祉水準をさらに上げることは困難なのに。。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


「みんな死んでしまえ。」という気持ちとは

2009/05/26 00:01
画像

 「否定の否定」の否定。一気に果実を得られないことへの憎しみ。若しくは知恵の実を食べてしまった、つまり、知識を介在しなければ、果実を享受できないことへのフラストレーション。でも、「否定の否定」を否定しても、そもそもの「否定」が本質的なものである場合は近道もないし、果実は享受できない。
 ある意味「否定をもたらしうるものはなくなってしまえ。」は、デストルドーより根源的。まさに、キリストに悪魔が試した問い「お前が神ならば、すべての人の願いをそのままかなえてみよ。」だよね。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


生成と差異そして差異の深化

2009/05/24 18:33
画像


「差異と反復」ってスピノザ的とかグノーシス主義と言えるかも。そう考えると「存在は本質に先行する」とする実存主義がヘーゲルを根源とするというのも当たっているのかしら。。でも、生成と差異そして差異の深化だよね。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


絶対精神

2009/05/23 00:02

画像

死に際しても自らによる再生を信じる精神の在り方。そもそも否定されなければ再生はない。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


手を差しのばしてお前を求めないさ、この街。

2009/05/19 23:15
画像
 
 暖かい環境が確保されないと人は自己実現へと赴かないとするのは、本末転倒。どこまで暖かい環境を用意すればよいのかという議論になり、意識の否定につながる。自然を重視しているようで、暖かい環境を用意するための人為を前提としている。
 でも、意識の昇華、意識の融解、意識の消滅を場合分けしてみようかな?目を覚ましているだけで肉体が痛むなど、非自発的な理想と現実の乖離の中で、意識が溶けてしまうことを願うことってあるよね。ほかにも、誰かと一つになって自己意識を失うこととか。。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


猿の軍団

2009/05/19 23:05
画像

 基本的権利を考えると、「幸福」追求があって、それぞれの幸福「追求」をする存在の尊重から、それぞれの自由があって、その次に差別の禁止という順番かしら。幸福追求権は自由権に、自由権は平等権に先行する。
 例えば、牛も幸福追求をしているのだが、我々は、肉等として活用するために、従属物として飼い、屠殺する。つまり、牛の幸福追求権や自由権を当然のごとく否定している。また、「ヒト」といえども、千差万別であり皆同じではない。でも、食肉用の鶏でもあっても広い場所で飼って少しは幸福にすべきというのがアストリッド・リングレン。、
 ヒトであれば人権が発生するということを当然視する立場では、仮に、ヒトより高度な牛の形をした生物がやってきて、自分たちに似た牛を家畜・虐殺しているヒトをみて、逆にヒトを仕返しで家畜化してやろうとしたらどう応えるのだろうか。
 精神現象学や大論理学では扱う必要がない「ヒト」の対象としての特殊性について、もう少し既成概念を解析してみたい。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


つれづれに

2009/05/19 00:52
画像

○ エヴァンゲリオンって、「他人」や世の中に対して、うまく接することができない青少年の成長物語なんだな。ハリネズミのジレンマじゃないけれど、自我の境界(ATフィールド)って、ちょっと整理したくなる概念。

○ 学力とか昇進とか運動会の成績とか、他人を笑わせクラスの人気者となることとか、客観的な尺度を満たしている満足感。イスラム教とか絶対者に従う生活ってそれに近いと思う。自分を評価する尺度自体は何かあがくことは、往々にして、義務を果たすことによる満足感を軽視する。絶対的なものの急に目覚めてもリアクションが大きすぎるけど。

○ 仕事の合間に、生成を起因とする性質と他者との対立を起因とする性質を中心に、一般者の性質と個別の性質、類におけるところの種の性質のあり方を考えてみる。これは大切。
 
○ 恋は生物にとって強い欲望だけど、「人は恋愛のみに生きるにあらず。」って、真理だよね。また、恋って、単に性的な欲望だけではなく、他人からの評価がからむことが多いから、食欲とか、睡眠欲とかと違う面がある。単なる抑え切れない性的な欲望って奴もあると思うけど。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


今日は図書館へ

2009/05/18 01:55
画像

 土日は、久々に学校の図書館へ行き、ヘーゲルの「美学」を。生意気で、昔レクラム文庫で買って読んでいた(読んでいたふり?)が、日本語はやはり分りやすい。区役所の図書館と違い、ちょっと緊張する。学生さんがまぶしくうらやましい。
 家で大論理学の始元論を読み返す。学生のとき知り合いがはまっていた見田宗介さんがまずは「関係性」と言っていたらしいけど、「関係」は分離を前提とするから始元ではない。植物には意識が不要かもしれないけれど、人には「ある」という意識が生じうる。
 「ヘーゲル学者」の中で、よく、「ヘーゲル独特の術語」ということを言う人がいるけど、実はヘーゲル独特なものはない。例えば、数論を扱うのに不可欠なツールであるゼータ関数を、分らない人が独特だ、独特だと言っているようなもの。ヘーゲルほど、自我に不安を覚え解析的に考えたことがなかっただけだと思う。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


不確定性原理と時間性

2009/05/17 14:25
画像

 原理的に現在の状態から次の状態が確率論的にしかわからないという物理学上の問題と、我々の予見が常に結果と食い違いうるという話は、全く異質な話。小林秀雄氏と湯川秀樹氏の対談を読み返して、改めて感じる。そもそも、量子論的限界がなくても、時間の中に生きる我々は、自分の予見に安心できないのだし、逆に、物理法則に量子論的な限界があっても、時間性の中で過去を振り返り未来を想うことの重要性は変わらない。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


交感神経優位かな。。

2009/05/17 11:57
画像

 いつも、夢と現実とのギャップを意識していると交感神経優位となる。このような状態をほっておかずに、交感神経と副交感神経のバランスに留意して生活することも必要かもしれないと自覚。身体とその他の物を明確に区別するのは思い込みだけど(病気してみれば分る。)、だからこそ自己の最も親しい手段等として他の物と同様メインテナンスしなければならないかもしれない。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


誘惑(欲求を呼び起こすもの)を遠ざけること

2009/05/17 11:45
画像

 「誘惑(欲求を呼び起こすもの)を遠ざける。」。欲求と善の根源的な一致を認め、より善きものを追い求める立場からは、「人は環境によらず本来的な選択をできる。」、「本来的な選択を妨げている。」と言われるかもしれない。しかし、欲求の序列化は、他の欲求の排除であり、排除されるべき欲求を呼び起こすものに対して否定作用を行い続けることは、選択された欲求の実現に向けた集中を途切れさせること。
 そして、人は、自分の本来的な欲求が総て分っているわけでもなく、意思がそれほど強くて、自己責任を負える人ばかりではない。欲求と善の根源的な一致を認め、より善いものを追い求める立場からも是認できる知恵。
 社会としても、マリファナの禁止やたばこ広告の制限、性の意識の制限とか、既成観念や制度が誘惑から子羊を守っている。
 
 結果として悪い誘惑から逃れられるのは幸いだと思う。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


「置き換え」の排除

2009/05/08 23:31
画像


大切だが達成が困難な目標と享受が容易だが本来大切ではない目標を分け、オンとオフの切り替えとか、前者と後者のバランスをとるべきという発想は破綻する。本来大切ではない目標はやはり大切でない目標でしかないのだから、リフレッシュメント効果はあるにせよ、後者は前者を代替しない。バランス論では、自分にとっての重要なものと自分が引かれるものとの乖離が、解消されない。義務的な仕事の代償として趣味を行うのではなく、達成が困難な目標については、自分の行った行為の結果を日々享受していくことが重要だよね。

記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


幸せのポートフォリオ

2009/05/07 00:33
画像

 一番大きな夢のみの達成状況をみるとためいきばかりだけれど、家に着けば雨で冷え体が温まるし、ご飯を食べればおいしい。
 業火の中にいても、その中で味わえる喜びまで否定することはおかしいはず。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


善の理念か。

2009/05/05 13:26
画像

 ヘーゲルの「哲学入門」で出てくる「理性と善とは同一である」という命題は、価値と真理の混交を排除する立場のみならず、知性の悪用を懸念する立場からも、違和感があるだろう。前者は、切り離された観察的理性の行き詰まりをどうするのかなと思うし、後者は良心(gewissen:義務ではない個別の欲求等も同じ場で捉え判断する。)で判断すれば生じないのだが、いきなり、言われると感心してしまう。(「大論理学」はあきれるほど緻密なので、「哲学入門」の方が分りやすいときがある。)
 現実と理想との乖離が、主体的に生きる動機だった時を乗り越えると、主体的に生きて今の段階から次の段階に移行することに「疲れ」なり、「結局」いいことがなかったという実感が生じることがある。そんなとき、主体性を維持するのは、「善」の理念、善さの量的追求なんだと思う。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


推理・行為・形式・特殊化

2009/01/03 22:19
画像

 推理における3つの展開って、例えば、「茶碗は、洗うと、きれいになる。」→「以前、茶碗を洗ったら、茶碗がきれいになった。だから、洗ったらきれいになる。」。→「茶碗をきれいにしたい。洗うときれいになる。だから、茶碗を洗う。」というもの。そして、「洗う」は茶碗に「形式」を与え、特殊化させている。
 「理性の狡知」を前提とすれば「判断」だけで済むのかもしれないが、「推理」によって絶対恐怖から逃れられる。
 我々は、自然と論理に乗っかって思考しているけど、乗っかっている論理を考えてみると本当に興味深い。 日常言語信仰ではないけれど。。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク

ヘーゲルな日々/BIGLOBEウェブリブログ
[ ]